Aug 22, 2021

The lady in the van

同じ映画やドラマを何度も観てしまうタイプだ。

これにはストーリーが好きで何度も見返す時と、視覚的に気になる部分(景色や衣装、小道具etc.)があって見返す時の2パターンがある。


『素晴らしき哉、人生!』は前者だし、名探偵ポワロのドラマシリーズは前者でもあり後者でもある。


『ミス・シェパードをお手本に』(原題 The lady in the van)はどちらかというと後者だ。

今作は英国人作家アラン・ベネットの実体験に基づく戯曲の映画化で、2つの名誉爵位を持つマギー・スミスがホームレス役というのが話題となったおかしみと哀しみを抱えた良作なのだが、ストーリーと同時に主人公アランの着こなしと彼が使うマグカップが気になってその後何度か見返している。


まずアランの着こなしだが、それは(ほぼ)一貫してボタンダウンのシャツにタイ、そこにハイゲージのVネックニットorベストの組み合わせで、外出時にはジャケットやコート(靴はスエードのオックスフォードがメイン)がプラスされる。しかもボトムスも含めたアイテムの殆どが無地で、その頑なまでに崩さないスタイルから彼の神経質な性格も感じ取ることができる。

中でも色合わせは注目に値するもので(個人的に)、今回改めて見直したのでその幾つかを列挙したい。


ある日の組み合わせはサックスブルーのボタンダウンにモスグリーンのウールタイとネイビーのニットベストだが、同じ色目のシャツにネイビーのウールタイとえんじ色のニットベストもある。マスタードイエローのコーデュロイジャケットを着た日は少し濃いブルーのボタンダウンにえんじ色のウールタイとネイビーのニットベストを合わせてるし、淡いピンクのシャツにネイビーのウールタイとえんじ色のニットベストという日もある。

室内でタイを外している時は第一ボタンを開けて襟のボタンも外しニットカーディガンと合わせ、キャメルのダッフルコートにキャンバスのリュックを合わせた外出時は淡いピンクのシャツにネイビーのクルーニットでネクタイはせず、コットンパンツの裾をラインソックスにインして白のスニーカー、とTPOに応じて細かく変化をつけている。

中でも特に好きなのはフランネルっぽい厚手の緑のシャツに青のタイ、ネイビーのニットベストの組み合わせで(これにはチノっぽいカーキのコットンパンツを合わせている)、全編に渡ってそのセンスの良い色合わせのおかげで限られたアイテムなのにとても表情は豊かで、スタイリングの楽しさを存分に味わえる。

終盤本人役でカメオ出演したアラン・ベネットも鮮やかなオレンジ色のマフラーをしていて、本人のファッションが強く反映されていることが窺える。


次にアランが愛用する青と白のボーダーのマグカップだ。

見返すとそのボーダーはマグカップだけに限らず、ミルクジャグやプレート、ボウル、塩胡椒入れのような物も確認できる(キッチン棚のシーンは思わず一時停止して凝視した)。気になって調べてみると英国の老舗メーカーT.G.GREEN社の現在も製造されているコーニッシュウエアシリーズのものだった。そのボーダーは白地に青が色付けされたものではなく、白の上に重ねた青色を削り落として下の白地を出しているので、表面にはボーダーの柄に沿って凹凸がある為、手触りも独特だ。

年代によって細部のデザインが変わるのだが、個人的に今集めているものは1930~60年代に製造されたもので、ハンドル部分が現行よりも華奢なデザインになっていてポップなボーダーとのアンバランスさが面白い。







英国、ボーダー、色合わせでもう一人思い出すといえばデイヴィッド・ホックニーだろう。

アラン・べネットとデイヴィッド・ホックニーは同世代であり、もし彼らが同じ場に集ったなら、その場はとても華やかだろうと想像する。そういえば2014年に英国ブランドのBurberry Prorsumが”Writers and Painters”をコレクションテーマとして彼ら2人からインスパイアされた作品を発表していたのだった。仮想の場だけど、彼らが既に同じ場にいたと知ってなんだか嬉しくなった。



Jun 27, 2021

The Seventh Seal

カフタンのような服を着て杖を持つ裸足の男が立っている。

彼を取り囲むように並ぶ文字の意味は"LICHT"が光、"LEBEN"は命、そして" LIEBE"が愛、どれもドイツ語だ。 




約7cmx9cmほどのスペースにいるこの男を初めて見た時、直ぐにイングマール・ベルイマンの『第七の封印』に出てくる死神を連想した。しかし、思い返してみると死神はチェスはしていたけど杖は持って無かったし、裸足でも無かったはず…と記憶の中の死神と目の前のカフタン男を脳内で比べるうちに下辺の文字“R•KAEHLER"が単語ではなく人名らしい事に気付いた。

そう、この小さな紙片はEXLIBRIS(蔵書票)だ。


樋田直人氏の著書「蔵書票の美」(小学館ライブラリー)によると、EXLIBRISはドイツ発祥説が有力で、ゲルマン民族では古くから所有物にしるしをつけることがよく行われ、他人のものと区別する習慣があったそうだ。活版印刷が発明されたのもドイツだし、書籍と蔵書票というのはとても自然な繋がりに思えた。


なにしろ欧米では15世紀ごろまでは羊皮紙が主流で、それ自体作るには膨大な時間と手間がかかるわけで、その上内容も手で書き写していたとなれば当時の書物がとんでもなく貴重な物だったのは容易に想像できる。

よって当時のEXLIBRISに『紋章』を使ったものが多かったのも、貴重かつ高価な書物を所有できたのが貴族等の階層に限られていたのが大きいのだろう。


しかしその後、活版印刷が発明された事により書物が一般の人々も所有できる事となり、EXLIBRISを作る人も増えた。そしてその後長い年月を経てはるばる日本にまで伝わったのだから、この小さな紙片に大きな浪漫を感じずにはいられない。



結局のところ死神を連想させたカフタン男が何を意味するかは分からない。物語の内容を表しているのかもしれないし、メッセージが含まれているのかもしれない。いずれにせよ自分の所有を表明するなんてとても個人的な事であるからこそ、絵柄にその人の好みやセンスがダイレクトに反映されている点も興味深い。紋章や家紋もあれば、モットーや縁起物、街の風景や静物などなど、この小さな紙片の中はとても自由だ。



Dr.HANSHOFMANNのものらしいが、カーテン越しにこちらを見てる人が・・・


ジョーカー??


こちらはHUGO SPERLING氏のもの
左下に置かれている本の表紙に[EXLIBRIS]の文字


太陽の周りには"DER BLICK UBER~" と文章が記されている
リヒャルト・ワーグナーの言葉で「世界を超えた視点こそが、世界を理解する」というような意味らしい

赤色の背景色に風車が印象的なMULLER氏のもの



日本では芹沢銈介、バーナードリーチ、竹久夢二、徳力富三郎、恩地孝四郎、武井武雄、谷中安規、前田千帆などなど錚々たる作家が手がけた作品も多く、また欧米で主流となったエッチングに比べ木版画が多いのも日本のEXLIBRISの特徴かもしれない。


そこで以前古書店で手に入れていた山高登自選全書票(1983-2006)を改めて見てみる。

300枚ほどある蔵書票のテーマを見てみると「飛行船」「手まわしのオルゴール」「暮れる駅」「紙漉き」「きせかえ」「天使と旗」などとてもバラエティーに富んでいる。資料を目的としているのでモノクロが大半なのだが、それでもどれも木版画ならではの温かみが伝わってくる。


300枚以上のデザインが並ぶ、圧巻


一番気になったのは25番「手まわしのオルゴール」


実物に貼り付けられている蔵書票は3枚。限られた色数でも表情は豊かだ。


ちなみに書物が羊皮紙では無く、和紙だった日本では蔵書票ならぬ蔵書印という文化が既にあり、正倉院御物には光明皇后の蔵書印が確認できるそうで、国や時代は違えど人が思い付くことに大差はないようだ。


捺印したり貼ったり、その作業はいつの時代も嬉しさと共にあるのだろう。


Feb 11, 2021

饅頭こわい

描かれてたキリストが修復後には全くの別人になってしまった、という騒動が何年か前にスペインの教会であった。

発覚当初は散々叩かれてたというのに画像が世に広まるにつれ話題の絵を見ようと教会への訪問者が増加、その結果入場料も徴収するようになり(保存や慈善活動に充てるらしい)更にはその絵をプリントしたグッズまでも販売されたのだそうだ。作者も教会側も色んな意味でまさかこんな事になるとは思って無かっただろうけど、今の時代を映した顛末だと思う。



この土人形の顔はまさにその騒動を思い起こさせるレベルだ。シルエットや凹凸から推察すると恐らく饅頭喰い人形なのだろうけど持っている他のと並べてみると全然違う、まさに別モノだ。



まず饅頭喰い人形ならば両手に饅頭を持っているはずなのだが見当たらない。

何故饅頭なのかというと、これは大人に父と母とどちらが好きかと聞かれた子どもが持っていた饅頭を二つに割ってどちらが美味しいか、と問い返したという説話からきているらしい。




この饅頭喰い人形(仮)にもそれらしき凹凸はあるのだが装束も含めて型取りの凹凸を完全に無視した色付けになっている。しかも表情に至ってはまるで一筆書きレベルだ。




饅頭喰い人形と言えば落語「三十石」でも京土産として登場するし、饅頭括りにすると「饅頭こわい」もある。

落語の楽しみは同じ演目でも噺家によっても異なるし、上方と江戸落語でも違って聞こえるし、更には同じ噺家でもその時々で変化するところだ。まず基本の型があって、それぞれの個性や技やタイミングで変容を遂げる。

そうこう考えていると、この饅頭喰い人形が仮でも別物でも何ものでも、もうそれはそれで良いのだと思えてしまう。


徳力富吉郎作 饅頭喰い