Feb 13, 2022

Mesquita

最近手に入れた器を思い浮かべるとモノトーン2色の配色がやたら多い、という事に気が付いた。

ELIZABETH RAEBURNのカップ、吉田直嗣のカップと豆皿、そして掛谷康樹の皿も。







これまでも白や黒の配色を選ぶ事はあったが、今回は何かが違うと感じている。

たまたま集まったのでは無く、どこか意志を持って集まった気が・・・と言うと少し大袈裟かもしれないなあと首を捻っていたら、棚にあるメスキータの図録が眼に入って合点がいった。

きっと頭の片隅にメスキータの作品が残像となって残っているせいだ。


メスキータ展は2019年から20年にかけて開催された日本で初めての回顧展で、ここ数年で足を運んだ展覧会の中でも強烈に印象に残っているものの一つだ。

そもそもサミュエル・イェスルン・デ・メスキータという名前も知らず、ポスターにあった不気味な男の顔とエッシャーの名前に興味を持っただけの軽い動機だっただけに、初めて作品の前に立った時の衝撃は今でも忘れられない。


うつむく女 1913



メスキータの作品は木版画、エッチング、水彩画、雑誌の表紙等の多岐に渡り、モチーフも人物や植物、動物と様々だ。

特に代名詞とも言える木版画においてはその白と黒のコントラストによってどれも迫力があり、迫力がありすぎて不気味とさえ思っていたポスターの男が実は彼の息子ヤープだったのを知った時には驚きと同時に何故あんなに怖い顔にわざわざ・・・とメスキータに語りかけてしまった。



マントを着たヤープ 1913


「ウェンディンゲン」表紙


二頭の牛 1916


ヤープ・イェスルン・デ・メスキータの肖像 1922


足を運ぶきっかけをくれたエッシャーはメスキータが教鞭をとっていた美術学校の生徒であり、またメスキータ一家がアウシュビッツに連れ去られた後、彼の作品をアトリエから救い出した一人でもある。(メスキータ夫妻と息子のヤープはその後強制収容所で死亡している)


何の予備知識も無く見に行ったので、館内を歩み進めてようやく「エッシャーが命懸けで守った男」というポスターの謳い文句の意味を理解した。そして100年以上前に制作されたメスキータの作品を遠い日本の地でこうやって目の前で鑑賞できることが当たり前ではないことを、更にはこのコロナ渦においてよくぞ中止にならなかったと色んな方面に感謝しながら余韻と図録を抱えて美術館を後にした。


表紙に寒冷紗が使用されている今回の図録には1946年にアムステルダム市立美術館で戦後初めて開催された「メスキータ作品展」の図録に掲載されたエッシャーの文章も翻訳転載されている。

その文章でエッシャーは「メスキータは常に我が道を行き、頑固で率直だった」と語り、また「他の人々からの影響はあまり受けなかったが、自分では強い影響を学生たちに与えていた。」と評している。またメスキータの人柄が伝わるようなエピソードとして「シマウマは生きている木版画だ(元々鮮やかに黒と白に色分けされている)。そのシマウマをもう一度木版にすることは、自制しなくちゃいけない。」とエッシャーたち生徒に言っておきながら、後にメスキータがシマウマを制作していたことを知って驚いた、というオチのあるエピソードも微笑ましく(確かに回顧展にもシマウマも牛の作品もあった)、そのエッシャー自身が戦争の混乱の中において彼の作品を救い出したというのは、単に教師と教え子ではなくひとりの芸術家同士としての信頼関係がそこにはあったのだろうと感じている。


更にこの図録の序盤には個人としては最大のメスキータ収集家のマリア・ヴォルタース=ヘーインク氏とクリスティアン・オルトヴィン・ヴォルタース氏の文章が1枚のポスターと共に掲載されている。そのポスターとは1980年にアムステルダムで開催されたメスキータ展のものなのだが、ポスターにはハンカチで鼻と口を押さえる人の顔とオランダ語で『NIEST NOOIT ZONDER ZAKDOEK』(ハンカチなしでくしゃみをするな)という言葉が記された作品が中央に配されている。

2019年6月の回顧展スタートに向けて図録を製作していた時点ではまだcovid-19なんて言葉すら存在しなかったはずで、何とも不思議で複雑な気分になる。





Aug 22, 2021

The lady in the van

同じ映画やドラマを何度も観てしまうタイプだ。

これにはストーリーが好きで何度も見返す時と、視覚的に気になる部分(景色や衣装、小道具etc.)があって見返す時の2パターンがある。


『素晴らしき哉、人生!』は前者だし、名探偵ポワロのドラマシリーズは前者でもあり後者でもある。


『ミス・シェパードをお手本に』(原題 The lady in the van)はどちらかというと後者だ。

今作は英国人作家アラン・ベネットの実体験に基づく戯曲の映画化で、2つの名誉爵位を持つマギー・スミスがホームレス役というのが話題となったおかしみと哀しみを抱えた良作なのだが、ストーリーと同時に主人公アランの着こなしと彼が使うマグカップが気になってその後何度か見返している。


まずアランの着こなしだが、それは(ほぼ)一貫してボタンダウンのシャツにタイ、そこにハイゲージのVネックニットorベストの組み合わせで、外出時にはジャケットやコート(靴はスエードのオックスフォードがメイン)がプラスされる。しかもボトムスも含めたアイテムの殆どが無地で、その頑なまでに崩さないスタイルから彼の神経質な性格も感じ取ることができる。

中でも色合わせは注目に値するもので(個人的に)、今回改めて見直したのでその幾つかを列挙したい。


ある日の組み合わせはサックスブルーのボタンダウンにモスグリーンのウールタイとネイビーのニットベストだが、同じ色目のシャツにネイビーのウールタイとえんじ色のニットベストもある。マスタードイエローのコーデュロイジャケットを着た日は少し濃いブルーのボタンダウンにえんじ色のウールタイとネイビーのニットベストを合わせてるし、淡いピンクのシャツにネイビーのウールタイとえんじ色のニットベストという日もある。

室内でタイを外している時は第一ボタンを開けて襟のボタンも外しニットカーディガンと合わせ、キャメルのダッフルコートにキャンバスのリュックを合わせた外出時は淡いピンクのシャツにネイビーのクルーニットでネクタイはせず、コットンパンツの裾をラインソックスにインして白のスニーカー、とTPOに応じて細かく変化をつけている。

中でも特に好きなのはフランネルっぽい厚手の緑のシャツに青のタイ、ネイビーのニットベストの組み合わせで(これにはチノっぽいカーキのコットンパンツを合わせている)、全編に渡ってそのセンスの良い色合わせのおかげで限られたアイテムなのにとても表情は豊かで、スタイリングの楽しさを存分に味わえる。

終盤本人役でカメオ出演したアラン・ベネットも鮮やかなオレンジ色のマフラーをしていて、本人のファッションが強く反映されていることが窺える。


次にアランが愛用する青と白のボーダーのマグカップだ。

見返すとそのボーダーはマグカップだけに限らず、ミルクジャグやプレート、ボウル、塩胡椒入れのような物も確認できる(キッチン棚のシーンは思わず一時停止して凝視した)。気になって調べてみると英国の老舗メーカーT.G.GREEN社の現在も製造されているコーニッシュウエアシリーズのものだった。そのボーダーは白地に青が色付けされたものではなく、白の上に重ねた青色を削り落として下の白地を出しているので、表面にはボーダーの柄に沿って凹凸がある為、手触りも独特だ。

年代によって細部のデザインが変わるのだが、個人的に今集めているものは1930~60年代に製造されたもので、ハンドル部分が現行よりも華奢なデザインになっていてポップなボーダーとのアンバランスさが面白い。







英国、ボーダー、色合わせでもう一人思い出すといえばデイヴィッド・ホックニーだろう。

アラン・べネットとデイヴィッド・ホックニーは同世代であり、もし彼らが同じ場に集ったなら、その場はとても華やかだろうと想像する。そういえば2014年に英国ブランドのBurberry Prorsumが”Writers and Painters”をコレクションテーマとして彼ら2人からインスパイアされた作品を発表していたのだった。仮想の場だけど、彼らが既に同じ場にいたと知ってなんだか嬉しくなった。



Jun 27, 2021

The Seventh Seal

カフタンのような服を着て杖を持つ裸足の男が立っている。

彼を取り囲むように並ぶ文字の意味は"LICHT"が光、"LEBEN"は命、そして" LIEBE"が愛、どれもドイツ語だ。 




約7cmx9cmほどのスペースにいるこの男を初めて見た時、直ぐにイングマール・ベルイマンの『第七の封印』に出てくる死神を連想した。しかし、思い返してみると死神はチェスはしていたけど杖は持って無かったし、裸足でも無かったはず…と記憶の中の死神と目の前のカフタン男を脳内で比べるうちに下辺の文字“R•KAEHLER"が単語ではなく人名らしい事に気付いた。

そう、この小さな紙片はEXLIBRIS(蔵書票)だ。


樋田直人氏の著書「蔵書票の美」(小学館ライブラリー)によると、EXLIBRISはドイツ発祥説が有力で、ゲルマン民族では古くから所有物にしるしをつけることがよく行われ、他人のものと区別する習慣があったそうだ。活版印刷が発明されたのもドイツだし、書籍と蔵書票というのはとても自然な繋がりに思えた。


なにしろ欧米では15世紀ごろまでは羊皮紙が主流で、それ自体作るには膨大な時間と手間がかかるわけで、その上内容も手で書き写していたとなれば当時の書物がとんでもなく貴重な物だったのは容易に想像できる。

よって当時のEXLIBRISに『紋章』を使ったものが多かったのも、貴重かつ高価な書物を所有できたのが貴族等の階層に限られていたのが大きいのだろう。


しかしその後、活版印刷が発明された事により書物が一般の人々も所有できる事となり、EXLIBRISを作る人も増えた。そしてその後長い年月を経てはるばる日本にまで伝わったのだから、この小さな紙片に大きな浪漫を感じずにはいられない。



結局のところ死神を連想させたカフタン男が何を意味するかは分からない。物語の内容を表しているのかもしれないし、メッセージが含まれているのかもしれない。いずれにせよ自分の所有を表明するなんてとても個人的な事であるからこそ、絵柄にその人の好みやセンスがダイレクトに反映されている点も興味深い。紋章や家紋もあれば、モットーや縁起物、街の風景や静物などなど、この小さな紙片の中はとても自由だ。



Dr.HANSHOFMANNのものらしいが、カーテン越しにこちらを見てる人が・・・


ジョーカー??


こちらはHUGO SPERLING氏のもの
左下に置かれている本の表紙に[EXLIBRIS]の文字


太陽の周りには"DER BLICK UBER~" と文章が記されている
リヒャルト・ワーグナーの言葉で「世界を超えた視点こそが、世界を理解する」というような意味らしい

赤色の背景色に風車が印象的なMULLER氏のもの



日本では芹沢銈介、バーナードリーチ、竹久夢二、徳力富三郎、恩地孝四郎、武井武雄、谷中安規、前田千帆などなど錚々たる作家が手がけた作品も多く、また欧米で主流となったエッチングに比べ木版画が多いのも日本のEXLIBRISの特徴かもしれない。


そこで以前古書店で手に入れていた山高登自選全書票(1983-2006)を改めて見てみる。

300枚ほどある蔵書票のテーマを見てみると「飛行船」「手まわしのオルゴール」「暮れる駅」「紙漉き」「きせかえ」「天使と旗」などとてもバラエティーに富んでいる。資料を目的としているのでモノクロが大半なのだが、それでもどれも木版画ならではの温かみが伝わってくる。


300枚以上のデザインが並ぶ、圧巻


一番気になったのは25番「手まわしのオルゴール」


実物に貼り付けられている蔵書票は3枚。限られた色数でも表情は豊かだ。


ちなみに書物が羊皮紙では無く、和紙だった日本では蔵書票ならぬ蔵書印という文化が既にあり、正倉院御物には光明皇后の蔵書印が確認できるそうで、国や時代は違えど人が思い付くことに大差はないようだ。


捺印したり貼ったり、その作業はいつの時代も嬉しさと共にあるのだろう。


Feb 11, 2021

饅頭こわい

描かれてたキリストが修復後には全くの別人になってしまった、という騒動が何年か前にスペインの教会であった。

発覚当初は散々叩かれてたというのに画像が世に広まるにつれ話題の絵を見ようと教会への訪問者が増加、その結果入場料も徴収するようになり(保存や慈善活動に充てるらしい)更にはその絵をプリントしたグッズまでも販売されたのだそうだ。作者も教会側も色んな意味でまさかこんな事になるとは思って無かっただろうけど、今の時代を映した顛末だと思う。



この土人形の顔はまさにその騒動を思い起こさせるレベルだ。シルエットや凹凸から推察すると恐らく饅頭喰い人形なのだろうけど持っている他のと並べてみると全然違う、まさに別モノだ。



まず饅頭喰い人形ならば両手に饅頭を持っているはずなのだが見当たらない。

何故饅頭なのかというと、これは大人に父と母とどちらが好きかと聞かれた子どもが持っていた饅頭を二つに割ってどちらが美味しいか、と問い返したという説話からきているらしい。




この饅頭喰い人形(仮)にもそれらしき凹凸はあるのだが装束も含めて型取りの凹凸を完全に無視した色付けになっている。しかも表情に至ってはまるで一筆書きレベルだ。




饅頭喰い人形と言えば落語「三十石」でも京土産として登場するし、饅頭括りにすると「饅頭こわい」もある。

落語の楽しみは同じ演目でも噺家によっても異なるし、上方と江戸落語でも違って聞こえるし、更には同じ噺家でもその時々で変化するところだ。まず基本の型があって、それぞれの個性や技やタイミングで変容を遂げる。

そうこう考えていると、この饅頭喰い人形が仮でも別物でも何ものでも、もうそれはそれで良いのだと思えてしまう。


徳力富吉郎作 饅頭喰い


Dec 6, 2020

The Best Offer

それまでさして興味が向かなかったものに対して突然自分のアンテナが反応する時がある。今回がまさにそれだった。

ポートレートに関しては写真であれば好きだけど、絵画になると手に入れようとは全く思わなかった、これまでは。


なのに目の前には気難しそうに座るおじさんの人物画がある。描かれた本人はこちらを見ているわけでもないので、ポートレートと言うより電車の向かい側にたまたま座っているおじさんのスケッチといった感じだ。我ながら何故これに反応したのか良く分からないのだけれど、やはり何度見ても良いなと思う、この絵にはそんな不思議な引力がある。




作者はFritz Trögerというドイツ人の画家で、他の作品について調べてみるといくつか作風に種類があるものの、描かれているのは郊外の風景や働く人々の様子やその人そのものであり、一貫して市井の人々とその日常が切り取られている。

昔からストリートスナップのような視点が好きなので、作者のそういった感覚に今回アンテナが反応したのならそれはとても嬉しい発見だ。






前に観た映画『鑑定士と顔のない依頼人』では高価な肖像画に囲まれて暮らす主人公が登場する(この主人公もかなり気難しそうなおじさんだ)。彼のように肖像画ばかりに囲まれる暮らしは想像出来ないけれど、少しぐらいなら良さそうだと思い始めている。



Sep 6, 2020

Stand by Me

この8月も暑かった。しかも今年は気軽に出かけられないという事情も加わり、否が応でも家に居る時間が長くなっている。

猛暑日の様子を伝えるラジオを消すと窓の外から蝉の大合唱が聞こえてきた。絵に描いたような夏空は空調が効いた部屋でも熱気を感じさせて、もう何もする気が起きない。こんな時は観念して映画を見るに限るのでタブレットを開いて『スタンド・バイ・ミー』を見ることにした。


1986年公開のこの映画をこれまで何度観たことだろう。細かい内容まで映像付きで覚えているくせに、それでもまた選んでしまうのは、この作品に登場するものが自分の中にある懐かしい記憶に触れる気がするからかもしれない。


夏の冒険、ジーンズと白いスニーカー、疎遠になった旧友との思い出、焚き火と空想話、怖いおじさんと犬…etc. 主人公と仲間たちのように「あるもの」を探して旅をした経験は無いし、そもそも設定は50年代のアメリカだし、本物の蛭も見た事は無い。けれどもこの物語が映す心情や光景に何処か懐かしさを感じてしまうのだ。


真っ直ぐに伸びる線路のカットから彼らの冒険は始まる。そのレールはこの物語だけでなく、この先も長く続く彼らの未来を表しているようにも見える。この旅が終わってしまうとそれぞれの人生に向かってレールは分岐し、やがて全く違う景色となる。そう思って映画を見てみるとこの作品における線路の存在はなんとノスタルジックなのだろう。過去を振り返って語る主人公の視線は、最後尾の車両から遠ざかる線路と景色を眺める時の感覚に似ているのかもしれない。



鉄道レールが記念品として配布される事があると知ったのはこのカットレールを手に入れた時だった。鉄やベークライトの塊に弱く、これが何かも知らずに手に入れた後に廃線記念等で販売されていると知ったのだ。それにしてもレールにまで愛を注ぐとは、鉄道愛好家の守備範囲の広さと深さに感動と尊敬を抱かずにはいられない。


しかし今回手に入れたものに関しては記念の刻印等は無く、更には塗装までされているので出自は全く不明だし、カットレールとして相応しいカタチかどうかも怪しい。けれども自分にはその方が都合が良い、ノスタルジックすぎるのは性分では無いのだ。


Jul 5, 2020

2001: A Space Odyssey

ハーディ・エイミス(Hardy Amies) と聞いて思い浮かべる事は人それぞれだろう。
メンズのファッションデザイナーという人もいるだろうし、英国女王御用達のドレスメーカーという人、もしくはサーの称号を持つデザイナーという人もいるに違いない。エイミス氏を形容する言葉は様々だ。

個人的に真っ先に思い浮かぶのはそのどれでもなく『ABC of Men's Fashion』の著者という事。



我が家にあるその本は尊敬する師匠に頂いた思い出の品で、2007年にロンドンにあるV&Aがエキシビジョンを開催した際に装丁を変え再販されたバージョン。ブルーの表紙が印象的なこの本を開くと、奥付には1964年と記されていて初版本は今から50年以上も前に出版されていた事が分かる。
その内容は当時Esquire誌に連載していたコラムがまとめられたもので、AからZまでピックアップされた単語それぞれに英国紳士たる為のルールや解説が掲載された教則本なのだが、”Accessories”から始まる頁を辞書片手に読み進めると、所々に興味深い項目がある事に気付かされる。
”F”の”カテゴリーを見てみると”Fashion”の次に取り上げられているのは”Fat Man”だし、”H”のカテゴリーには”Hips”もある。例えば”Purple”についてのコメントは次の通りだ。

"I can see no use for this handsome, not unmasculine colour except for ties, socks and handkerchiefs. If you know to wear them you don’t need my help. If you don’t, don’t.” 
要約すると「パープルという色はネクタイや靴下、ハンカチ以外には使いようがない(使うのが難しい)色で、もしあなたがこの色を着こなせるならば私の助けは要らないだろう。」といったところか。

もちろんパープル以外の色についても言及されていて、それぞれに合う髪の色等が細かく指南されている。単なる紳士服の基本的知識だけではなくエイミス氏の哲学も盛り込まれているのが本書の魅力なのだろう。

これまでの話の流れからメンズデザイナーとしてのイメージが強いエイミス氏だが、実は彼の出発点はレディースにある。
ロンドンのサヴィルロウにレディースオートクチュールのファッションハウスを開店したのが1946年で、そのたった9年後の1955年にはエリザベス2世からロイヤルワラントを授与され(それは1990年まで続いた)、1989年にはナイトの称号も与えられている。彼がメンズラインを発表したのは1959年頃で、以降2001年に引退するまでメンズ・レディースの両方をデザインしていたわけだが、当時は今と違ってレディースもメンズも同じ人物がデザインするのはとても珍しかっただろうから、彼のチャレンジと成功は業界でも大きな話題になったに違いない。

加えてエイミス氏はワールドカップやオリンピックのユニフォームデザインも手掛けておりイギリスを代表するデザイナーであった事は周知の事実だが、彼がデザインした作品について語る時、忘れてはならないのがスタンリー・キューブリック監督の『2001 年宇宙の旅』の衣装デザインだろう。

それは何度見ても目を奪われる映像作品で、セットも小道具も音楽もどれも隅々まで美しく(宇宙ステーションで使われる椅子はオリヴィエ・ムルグのジンチェアだし、宇宙食を食べる時に使われていたカトラリーはアルネ・ヤコブセンデザインのジョージ・ジェンセンだ)、登場人物が着る服も同様に美しい。ただ男性の着るスーツもはネクタイはしていないもののある意味とても英国的でさほど珍しいデザインではないし、船外で活動する宇宙服もデザインよりむしろ鮮やかな色使いの方が印象的だった。それに比べて女性が着ているものはどれも斬新で、特にシャトル内の無重力空間に漂うペンを拾うシーンでのキャビンアテンダントが着ているスーツと帽子のデザインはとても印象的だ。そう、さすがオートクチュリエである。


さて、このブログを書くにあたって何度目かの鑑賞をした際、これまでさほど気にならなかったフレーズに耳が反応してしまった事を報告したい。それは月で発見したモノリスの調査を極秘に行う為にソ連の科学者には感染症が発生したというデマを流して遠ざけた場面だ。
この作品が公開された1968年にも存在し、描かれた2001年にも更には現代の2020年も変わらず人類は感染症の脅威に怯えている。この事実について思う時、冒頭に登場するモノリスに怯える猿人を何故か思い出してしまうのだ。